北海道の道の話

 

 

 

 

 北海道国道の歴史を調べると内容が重複する場合が多く、また各国道TOPページに文章を貼り付けると長文になってしまうため、別ページにまとめて掲載することにしました。それがこのページで、各国道TOPページからリンクさせてあります。このページだけでも一つの読み物になるかと思います。

札幌旭川間の道の話(上川道路)

北見道路

日勝連絡道路の話

R274の話

◆Update:平成24年(2012年)3月 10日

札幌・旭川間の道の話(上川道路)

中央道路構想

 明治維新後、北海道の各地に入植地が建設されて開拓事業が始まったが、同時に内陸部の開拓地に至る道路の整備 を早急に行う必要があった。北海道内巡視を行った役人などの報告などから、道路開削事業が最優先事業として取り上げられたのは明治16年(1883年)1月のことであった。この時に取り上げられた『中央道路構想』は、”札幌県幌内鉄道幌向停車場より分岐し、石狩川をさかのぼって中央山地を越え、十勝国に出、釧路国をへて根室県に達する内陸横断道路”というもので、後の『中央道路』とは全く別のルートであった。

 明治18年(1885年)7〜10月に北海道内をくまなく調査した太政官書記官・金子堅太郎が、調査後帰京して参議伊藤博文に報告した『北海道三県巡視復命書』の中でも、札幌〜根室間の道路を開削し、次に南北に支線道路を開削すれば北海道内陸部の開拓が進むと主張。第一に”札幌〜根室間の道路開削”、第二に”札幌〜根室間の道路を結ぶ南北の道路を開削”することを目標にしていた。

 翌明治19年に札幌県・函館県・根室県を廃して北海道が設置される。設置当初も中央道路のルートは札幌〜空知〜上川〜十勝〜釧路〜根室というルートで建設が進められることになっていた。この頃、後述するように札幌〜空知〜上川間は仮道路が開通しており、一応ではあるが”道路が完成していたことになる。同じ頃、忠別(現:旭川)から富良野原野経由して日高山脈を越えて十勝に向かう道路の開削が行われようとしていた。現在のルートだとR237〜R38ということになる。

 しかし明治22年(1889年)になると、中央道路の上川以東ルートが大きく変更されることになる。札幌〜上川〜根室間のルートについては、@十勝経由ルート、A北見経由ルート、B日高・十勝の海岸経由ルートの3つがある。当時、開通していたのはBのみで、すでに(明治)国道四十三号線として整備が行われていたものの距離が長いのが不便であった。

 道路整備は北海道内陸部を開拓するため必要な事業であるが、国防という軍事上の理由からも早急に整備する必要があった。当時、北方からロシア帝国が南下してきておりオホーツク海側の防衛整備が急務とされた。国道四十三号線では移動距離が長く、海岸線を通るので軍艦から砲撃を受ける可能性があった。それゆえ移動距離が短く、かつ砲撃を受けない内陸部を通る道路が必要となったのである。それゆえ十勝経由ルート、北見経由ルートのどちらかを開削する必要に迫られていた。

 当初有力視されていた@十勝経由ルートは、忠別から富良野原野を南下し石狩・十勝国境(現在の狩勝峠付近)を越えて十勝原野に出、十勝原野を東に向かい足寄付近から十勝・釧路国境を越えて釧路・根室に向かうものであった。この場合、石狩・十勝間と十勝・釧路間の急峻な山脈を越える必要があること、十勝原野の土地が荒れているため道路開削困難な上、開通後の維持管理費用が莫大な額になることが指摘された。

 もうひとつのA北見経由ルートは、忠別から石狩・北見境の山脈を越えた後は湧別川沿いに進み猿潤(サロマ)湖南岸を経由して網走へ。さらに斜里川沿いを遡り北見・釧路境の山脈を越えて標茶経由で根室に向かうというルートであった。北見経由ルートは十勝経由ルートよりも距離が短く、山越えも十勝経由ルートの山越えに比べると標高が低いことなどから建設費が抑えられる利点があった。さらに北見・釧路周辺には農業に適した肥沃な原野があり、漁業に適した沿岸を通ることから、殖民上にも利点が大きいことが決め手となり、北海道庁は中央道路のルートを北見経由ルートに方針を大きく変換したのである。

●江別道路

 明治維新後の明治2年(1869年)11月、北海道における政治的拠点として札幌本府の建設が開始され、明治4年には本格化する。札幌周辺にはいくつかの村落がつくられる。その一つの白石村(現在の札幌市白石区)(*1)と札幌市街を結ぶ道路『白石道路』が明治5年(1872年)5月に完成する。しかしこの道路は僅かな雨で泥道となり人も馬も脚まで没するといった悪路であったため、地元村民有志による改良と道路整備の陳情が行われたという。しかし白石道路が官費で本格的に整備されるのは、江別方面に向かう『江別道路』が建設される明治20年代になってからとなった。

 『明治二十二年度事業功程報告』という北海道庁の報告書で、『石狩国札幌郡白石村、江別村近傍ハ逐年戸口増殖スト雖モ道路未ダ設ケス、不便少ナカラス。因リテ一條ノ道路ヲ開設ス』(雖モの読みは”いえども”)と道路開削に必要性が訴えられ、これを受けて明治22年(1889年)8月に札幌市街〜白石村〜江別村間の『江別道路』として建設が開始された。この道路は途中の白石村までは白石道路を改修したもので、冬期の事業中断を経て明治23年(1890年)11月に開通した。

 江別道路開通前の明治15年(1882年)11月には手稲〜札幌〜岩見沢〜幌内間の幌内鉄道が開通していたこともあり、北海道内陸部である空知方面・上川方面への開拓が進むことになった。

*1:仙台藩白石城主の片倉家12代当主である片倉邦憲の家臣らが移住してきたのが始まり。戊辰戦争で敗れた仙台藩の家臣とその一族、約600名が咸臨(かんりん)丸と庚午(こうご)丸に乗船し北海道に移住。咸臨丸が木古内沖で座礁・沈没するなどして多くの犠牲を出しながらも、うち67名が明治4年(1871年)11月に最月寒(ももつきさっぷ)と呼ばれていた白石区中央地区に移住。冬の寒さに耐えながら住居を建設し、明治5年2月頃までに104戸380名が移住し、郷里の名前を取って『白石村』と命名している。

●仮定県道札幌幌内線

 『江別道路』以前には既に別の道路が完成していた。それが『幌内炭坑連絡道路』で、札幌と幌内炭坑を結ぶ連絡道路であった。『江別道路』が開拓上で建設されたのとは違い、炭坑開発を主目的に建設された道路である。

 明治初期に存在が確認された幌内炭坑は、旧幕府から引き継いだ茅沼炭坑(岩内)とともに、開拓史直轄事業として開発されることになった。開発に先立って、掘り出された石炭を運ぶ鉄道と労働力の確保が必要となったが、それよりも前に札幌と幌内を結ぶ連絡道路を建設することになった。

 明治8年(1875年)7月の札幌〜雁来間の馬車道が開削されのを初めとして、幌内炭坑の開発が本格化する明治12年(1879年)頃までに幌内炭坑までの道路が開通した。この連絡道路は、札幌〜雁来〜対雁〜江別〜幌内太(→市来知:現三笠)〜幌内炭坑というルートであった。この道路もまた、春の融雪期には豊平川の増水になどにより通行が阻害されたため、明治19年(1886年)〜20年にかけて改修工事が行われた。

 『幌内炭坑連絡道路』(幌内道路、雁来新道とも呼ばれる)は札幌と幌内炭坑を結ぶ重要道路であることから、明治16年(1883年)1月には仮定県道(三等) 札幌幌内線に指定されている。

●江別新道

 明治19年(1886年)8月下旬に江別〜幌向間を結ぶ『江別新道』の建設工事が開始された。江別道路開通4年前のことである。当時の江別村・幌向村一体は石狩川とその支流が集まる場所で、大雨や融雪時は洪水で土地が水没することが多々あったため、早急な洪水対策として堤防機能も兼ね備えた道路の建設が要望されていた。そのため両端に溝渠を備えた排水機能を有する道路として建設が開始。同年11月には約3kmが早くも完成。その後も明治22年(1889年)まで建設ならびに改修工事が行われた。

 明治20年(1887年)には幌向〜岩見沢間の道路延長工事も開始される。建設理由は同じようなことからで、洪水などにより渡船が動けなくなり交通が途絶するためなどであった。同区間は幌内鉄道沿いに建設され、幌向川や郁春別川などに架橋するなどして、明治22年(1889年)6月頃までには開通。また岩見沢〜市来知(いちきしり)(現:三笠)・幌内間の連絡道路も明治18年(1885年)8月までに開通していたので、明治23年(1890年)末までに、札幌〜江別〜岩見沢〜市来知間の道路が一応開通していたことになる。

●上川仮道路

 北海道内陸部の開拓を進めるにあたり、中央道路の実現は必要不可欠であった。上川地方の道路については、前述のとおり市来知(現:三笠)付近までは幌内炭坑の開発があったため比較的早くに道路が建設されていたが、市来知以東についてはほとんど着手されていなかった。

 明治19年(1886年)5月にようやく石狩国空知郡市来知村〜石狩国上川郡忠別太(現:旭川)間の道路開削事業が始まった。距離にして約86kmの道路であるが、まずは馬を通すことを目的に仮道を開削することから始まった。工事は早いペースで進み、同年8月には早くも竣工。北海道内陸部への開拓事業が本格的に進むことになった。

 この上川仮道路は予算枠4000円であったが、総工事費は3787円94銭4厘(*2)で開通している。これは樺戸集治監(刑務所)の囚徒を工事に動員したためで、囚人を大量投入して道路を開削する先駆けとなった。(*3)

*2:上川仮道路の総工費は、報告書や上申書によって額が違い、他にも2081円49銭5厘、1877円1銭という金額が記録として残っている。本文中の金額は北海道庁『明治十九年度功程報告』に記載されている金額とのこと。いずれにせよ、 予算枠4000円以下で開削したことには間違いない。

*3:明治18年(1885年)に北海道巡見を命じられた太政官書記官金子堅太郎は、国事犯を含む集治監収監者を道路開削に使役することを建言しており、これに基づき囚徒を建設工事に大量投入された。

●上川道路

 明治19年(1886年)8月に開通した上川仮道路は、あくまでも”仮道”でしかなかった。支障をきたす木々を伐採して草を刈除し、割木でもって川に架橋した程度で、牛馬を通すだけの道であった。そのため明治20年(1887年)から市来知(現:三笠)〜空知太(現:滝川)〜忠別太(現:旭川)間の上川仮道路の改修工事が開始された。工事は市来知〜空知太、空知太〜忠別太の2工区に分けられた。

 最初に着手されたのは空知太〜忠別太間。同区間の音江法華(現:深川)〜忠別太間は地形的に険しい場所であったため、工事は困難であったという。冬期の積雪などもあって工事は進まず、明治20年度に始まった工事は3年近くに及び、同区間の改修工事が終わったのは明治22年(18

89年)11月のことであった。

 市来知〜空知太間は明治21年(1888年)度に着手された。概ね平坦な地形であったが、湿地帯などが多いため工事はなかなか進まなかった。冬期の積雪による中断などがあったが、明治23年(1890年)12月には改修工事が終了。これにより上川道路全区間の改修工事が終了した。

 この上川道路の改修工事にも囚人が大量投入されている。樺戸・札幌・空知の各監獄署から動員された囚人らであった。市来知(*4)〜空知太間では延べ動員人員が17万7660人ということからも、これら囚人労働力が改修工事の主要労働力となった。厳しい地形や自然環境下での労働ということで、犠牲になった囚人も多くいたのである。

*4:明治15年(1882年)6月に『市来知村』開村。明治39年(1903年)に市来知村・幌内村・幾春別村が合併して『三笠山村』が誕生。昭和17年(1942年)に『三笠町』となり、昭和32年に『三笠市』となった。

●仮定県道・国道への発展

 明治28年(1895年)3月に仮定県道中央線が指定された。北海道庁令第29号によると、中央線は「札幌ヨリ上川ヲ経テ網走ニ達スル路線」で、札幌〜岩見沢〜旭川(*5)間は「石狩国札幌郡札幌ヨリ空知国岩見沢村迄ハ、札幌ヨリ幌内ニ達スル仮定県道路、岩見沢村ヨリ分線岐シ、同郡奈井江、空知太、音江法華、上川郡神居古丹、旭川(中略)ヲ経テ網走ニ至ル」 という経路を辿った。岩見沢〜旭川間は上川道路を指定しているが、札幌〜岩見沢間については、『江別道路』『江別新道』経由ではなく、仮定県道札幌幌内線こと『幌内炭坑連絡道路』経由となっていた。

 明治40年(1907年)5月には中央線の上川道路区間(岩見沢〜旭川間)が国道四十三号線(東京市ヨリ第七師団司令部所在地(旭川区)ニ達スル路線)に指定され た。国道四十三号線は東京と根室を結ぶ路線だったのだが、区間変更で東京と旭川を結ぶ路線に変更となったための措置であった。

 まだ同じ明治40年(1907年)5月、北海道庁告示第275号により、北海道内の仮定県道の変更が行われた。この時に 仮定県道中央線は発展する形で”北海道庁より網走支庁、桧山支庁に達する路線”となった。具体的には網走〜旭川〜札幌〜喜茂別〜長万部〜森〜江差というルートをとることになった。このうち 網走〜旭川間は北見道路を指定、旭川〜岩見沢間は国道四十三号線と重複していたのだろう。

 この仮定県道中央線の旭川〜札幌間主要経由地を見ると、旭川〜音江〜滝川〜砂川〜奈井江〜沼買〜峯延〜岩見沢〜幌向〜江別〜大谷地〜白石〜札幌となり、雁来・対雁経由から白石・江別経由に変更されている。このルートのうち札幌〜岩見沢間は現在のR12のルートとほぼ一致しており、明治40年に誕生した明治国道四十三号線・仮定県道中央線がR12の先祖ということになる。 なお、この時(明治40年)に仮定県道中央線の指定から外れた仮定県道札幌幌内線は、地方費道札幌稚内線にその一部が編入されている。

 このように明治中期〜後期にかけて上川道路は北海道の幹線道路に発展して行ったのだが、その一方では道路損壊や路面状態の悪化で通行困難な状態になっていた。仮定県道〜国道となっても上川道路区間は『悪路』であった。明治31年(1898年)7月に旭川まで鉄道が開通していたが、道路を放っておくわけにもいかず、北海道庁は多額の資金を投入して補修を行ったが一時的な補修では全く解決されなかった。大正2年(1913年)〜大正3年(1914年)にかけて大規模な国道修繕・補修工事が行われ、ようやくその面目を一新した。

 大正9年(1920年)9月、(大正)道路法に基づいて全国に38路線の国道が認定される。北海道では3国道(国道四号・二十七号・二十八号)が認定された。(明治)国道のうち国道四十三号線とこれに関係する仮定県道中央線は、国道二十七号線 (東京市ヨリ第七師団司令部所在地(旭川区)ニ達スル路線(甲))と国道二十八号線(同じく(乙))に認定された。また仮定県道中央線のうち旭川以東の北見道路を中心とする区間は地方費道旭川根室線となった。

*5:忠別(太)が旭川に改名した年月は不明。正式に改称したのではなく、”忠別”という地名は徐々に忘れられてしまったらしい。明治23年(1890年)に『旭川村』他が開村し、以後旭川村を中心として発展していった 。同じ明治23年に空知太の地に滝川村も開村している。 こちらも滝川が正式名称となった年月は不明。なので、両村が開村した年を『旭川』『滝川』への改称した年とみなしている。

●国道12号線

 昭和時代に入ると自動車が徐々に増え始めると、北海道独自の道路を建設する計画が進められた。昭和17年(1942年)に北海道庁土木部道路かの技師によって報告書が発表された。(大正)国道四号線〜二七号線の小樽〜札幌〜旭川間を北海道における重要幹線国道として整備しようというものであり、改良工事そのものは昭和16年(1941年)度から小樽〜札幌間で着手されていたものの、全区間の改良工事そのものは戦争の激化により実現しなかった。

 大東亜戦争後の昭和28年(1953年)5月、新道路法(昭和道路法)に基づき新たな国道が誕生する。札幌〜岩見沢〜滝川〜旭川間の(大正)国道二十七号線・二十八号線は国道12号線に指定され、昭和29年(1954年)度からの道路整備計画によって道路改良・整備が行われ、現在に至るのである。

 

【参考・引用文献】 北海道道路史T〜V 北海道道路史調査会編 平成2年6月刊

新北海道史 第四巻 昭和48年8月刊

北見道路

●中央道路建設への囚徒投入

 明治19年(1886年)8月に上川仮道路が開通したことで、札幌〜忠別太(現:旭川)間の道路が一応開通した。上川仮道路は改修工事が行われ、明治23年(1890年)12月までには本格的な道路となるが、旭川まで道路が通じたことで北海道内陸部への開拓事業が進むことになる。旭川から先の中央道路ルートについては、当初は十勝経由であったが、南下してくるロシア帝国に対する国防上の必要性と地形や殖民上の理由などから北見経由ルートで建設されることになった。この道路がのちの『北見道路』である。

 これらの道路建設、とくに北見経由ルートの道路建設には集治監(刑務所)で服役中の囚徒が動員され多くの犠牲者が出たことで、『囚人道路』とも呼ばれることになった。道路建設に囚徒を動員する考えは明治18年(1885年)頃にでてきた。同年、当時の明治政府に北海道巡見を命じられた太政官書記官金子堅太郎が、「三県巡視復命書」の中で『彼等ハ固ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、其苦役ニ堪ヘズ斃死スルモ・・・之レ実ニ一挙両全ノ策ト云フベキナリ』と建言。国事犯を含む集治監収監者(囚徒)を道路開削に使用すべきと主張した。翌明治19年、北海道庁は北海道の開発・開拓は道路網を整備することから始まるという方針を示し、労働力の確保と建設費抑制という目的から、上川仮道路の建設から樺戸集治監収監者が投入。続く上川道路建設(仮道路の改修)にも動員された。この方針はそのまま北見道路の道路開削にも受け継がれることになった。

●旭川湧別仮道路の開削

 旭川〜網走間の道路は、まず旭川〜湧別間で建設が開始された。明治21年(1888年)に二代目北海道庁長官の永山武四郎は「忠別網走間道路は兵備上殖民上最緊急の事業であるから、すべての細費を節約して工事費に充つべし」という訓示を行った。軍事上・殖民上にも忠別網走間道路は最優先で建設しなければならないが、出来る限り建設費を節約して開削しようということであった。

 これに基づき明治22年(1889年)6月、忠別(現:旭川)〜湧別間の仮道路の開削が開始された。この開削事業には空知監獄署の囚徒37人が動員され、忠別〜湧別間に幅6尺の仮道路を開削し、湧別〜網走間は既存の北海岸道路を補修・改良して約60日で網走に達した。この仮道路はサロマ湖の外海砂洲沿いと能取湖口を経由した旧北海岸道路を通る約216kmの道路となったが、この距離の道路を37人で60日の日数で建設したということで、どれだけ重労働で困難な事業であったが窺える。

 

 

●北見道路の建設開始

 仮道路開通翌年の明治23年(1890年)4月、本道路である『北見道路』の建設が開始された。本道路が野付牛(現:北見)経由となり、仮道路よりも距離が長くなってしまったが、留辺蘂や野付牛周辺に肥沃な土地があり殖民上有益とみなしての経路変更と思われる。

 『北見道路』の建設は忠別太(現:旭川)〜伊香牛間(23.4km)から着手された。この工事には空知監獄署の収監者延べ178434人が投入され、明治23年10月に完成した。この年の空知監獄署の死亡者は106人で、うち道路建設期間中の死亡者は74人。これから幌内炭坑での死亡者20人を除いた54人が監獄所内もしくは道路工事において亡くなったことになるが、公式記録がないため人数は不明となっている。

 忠別太〜伊香牛間の道路建設中の明治23年5月、伊香牛〜上越間(39.3km)の建設も着工された。この区間の工事は囚徒不足のため民間請負によって建設され、明治23年11月に完成した。これにより明治23年末までに旭川から石狩・北見国境までの道路が開削したことになる。

 しかしこれらの道路は人力による速成工事であったため路面状態は悪く、膝まで泥につかるという悪路であった。明治24年(1891年)には空知集治監の収監者222人を動員して補修工事を行ったが、悪路状態はあまり改善されないままであった。

●北見道路の開通

 中央道路構想に基づき工事が開始された旭川〜網走間の道路建設であるが、明治23年(1890年)3月に永山北海道庁長官は、中央道路の網走〜石北国境間は釧路監獄署(→釧路集治監)の囚徒を動員するよう口達した。これに基づいて、明治23年6月に建設されたのが網走囚人宿泊所である。この囚人宿泊所は後に拡大されて網走監獄(網走分監)となり、後の網走刑務所となった。

 さて、北見国側の網走〜上越間(162.8km)の道路建設は、明治24年(1891年)4月に着手された。この工事は『是非本年度内ニ竣工ヲ要ス』という至上命令が下ったため、工事を効率良く行うために、道路開削・架橋架設・小屋掛けの3隊に分けて工事に当たった。この工事には釧路分監獄・網走分監の囚徒1115人が動員され、明治24年12月27日に完工して北海道庁に引き渡された。これにより旭川〜網走間の『北見道路』が全通。区間内には12カ所の官設の駅逓所(公設の宿泊所、人馬車継立所)が設けられた。しかしこの工事は過酷な工事となり、北見国内の網走〜野上〜北見峠(石北国境)間だけでも、211人の囚徒と4人の看守の合計215人が犠牲となっている。

 北見道路本道から外れた野上〜湧別間の仮道路は、明治25年(1892年)4月に本道の工事が着手され、同年10月末に完成している。この工事にも網走分監の収監者が動員され19人の犠牲者が出ている。

 

 

●『囚人道路』の悲劇

 記録上では、明治24年4月〜9月3日までの釧路集治監網走分監時代の死者は25人、9月4日〜12月末の北海道集治監網走分監の死者が186人となっている。明治24年8月中旬頃に、道路工事が野上付近まで達した時点で工事は釧路分監から網走分監に引き継がれたが、この18

6人というは釧路分監から工事を引き継いだ網走分監だけの死者数ということになる。これが故に『北見道路』は『囚人道路』という異名がついている。

 野上〜上越間の北見峠越え区間は70.8km。この区間で死亡した人数は186人で、これは1km当たり2.6人となり、さらに380mにつき1人の犠牲者が出たことになる。この数字は、明治24年の樺戸・空知・釧路の各集治監と比べると飛び抜けており、いかに大きな犠牲であるかが判る。過酷な労働、医事衛生の不備、食糧への認識不足などにより多くの犠牲者が出た。これら犠牲者の遺体は仮監(飯場)の近くや道路脇に埋められたが、昭和30年代以降現在に至るまで各地で発掘され、遺骨は墓地に改葬されるなどし供養されたが、未だに発掘されない遺体も多い。これら犠牲者の霊を弔うために、かつての『北見道路』沿いの各地には慰霊碑が建立されている。

 北見道路建設に伴う囚徒の犠牲者数は、はっきりと判っているだけでも211人となるが、さらに旭川〜伊香牛間の犠牲者も加わるので犠牲者数は増えることになる。正式な人数は不明となのだが、おおよそ250人前後の囚徒犠牲者がでたことになる。(他に看守4人の殉職者もある。) この過酷な囚人労働は世論に大きな衝撃を与え、帝国議会においても取り上げられた。そして明治28年(1895年)以降、集治監の外役工事は廃止されるに至った。

●仮定県道中央線

 明治24年(1891年)に北海道庁は北見国内の常呂原野と湧別原野の区画測設を実施し、両原野に屯田兵村を開村する計画を立てた。明治26年(1893年)12月に湧別原野の殖民地が開放告示されたもの、入植者は船で来た高知と加賀から来た団体にとどまり、常呂原野は入植者皆無という状態であった。両殖民地の開拓を促すはずの北見道路は多くの犠牲者を出して開通したが、通る人は極端に少ない状態が続いていた。

 明治28年(1895年)3月23日、北海道庁令第29号によって、北見道路(中央道路)は旭川〜網走間の『仮定県道中央線』に指定された。その1週間後の同年3月30日に日清戦争が終結すると、常呂原野・湧別原野の屯田兵村予定地では屯田兵村の建設が始まり、明治30年(1897年)以降、1000戸前後の入植者・屯田兵が入り開拓が本格化した。

 これを受けて、明治29年(1896年)から道路整備が始められ、北見峠〜野上間の整備が行われた。また中央線の越歳〜網走間は二見ヶ岡を迂回して三眺山の裏を通っていたが、明治29年に網走湖畔経由で大曲に出る道が開削されてルートが変更された。明治31年(1898年)7月に旭川まで鉄道が開通すると、中央線経由で旭川〜湧別間の逓送路線(郵便輸送路線)が開設。北見地方の開拓が進展するにつれ、中央線を利用する人は増加し、北見道路(中央道路)開通後約7年にしてようやく本来の目的を果たすようにな ったのである。

●『北見道路』の盛衰

 明治36年(1903年)9月、北海道官設鉄道天塩線(現在の宗谷本線)が名寄まで開通すると、旭川〜網走間の移動ルートは名寄経由がメインとなった。移動距離が長く北見峠を越える中央線は次第にさびれて行くことになる。明治37年10月16日に逓送路線が名寄〜湧別間に変更となると、中央線は仮定県道の指定を解除され、県道旭川根室線に格下げとなった。

 明治36年に工事着手された野付牛美幌間殖民道路(緋牛内〜キキン〜美幌)が明治37年に完成すると、県道旭川根室線はこの新道経由となり美幌〜女満別経由のルートに変更となった。

 明治38年(1905年)9月5日、日露戦争が終結すると、終戦による不況と物価高騰により北海道への移住者が増加した。北見国内への移住者も増加するが、移住者の多くは名寄経由で入ってくるため、県道利用者はさほど増えなかった。しかし開拓者の増加に伴い石狩川・湧別川・常呂川の上流地域にも入植地が出来てくると、農産物や生産・消費物資の集散が活発化し道路の利用度が高まり始めた。

 明治40年(1907年)5月、北海道庁告示第275号によって、県道旭川根室線の旭川〜網走間は仮定県道中央線に再指定された。この路線は北海道庁より網走支庁・桧山支庁に至る仮定県道であった。

 大正7年(1918年)12月に(大正)道路法が制定され、これに基づいて大正9年(1920年)9月に北海道では国道四号線、二十七号線、二十八号線が制定される。仮定県道中央線の旭川以西の区間は国道二十七号線・二十八号線に含まれることになった。残る旭川以東の旧『北見道路』区間は、大正9年4月に北海道道路令に基づいて地方費道旭川根室線となった。この時、下生田原〜留辺蘂間は五号峠(現在の共立峠)経由から、大正8年(1919年)に開通した旭峠経由のルートに変更となった。

 その後は北海道の鉄道網が発達することになり、幹線道路の意義は名目だけとなる。沿道にあった官設の駅逓所(公設の宿泊所、人馬車継立所)も昭和7年(1932年)6月末の八号白滝駅逓を最後に廃止された。

 

 

●国道39号線と石北峠ルートの開通

 地方費道旭川根室線は、旭川と網走・根室を結ぶ幹線道路として位置づけられていた。そのため旭川根室線は、戦後の昭和27年(1953年)7月に 成立した新道路法により、同年12月に旭川〜網走間の一級国道39号線に指定された。今のR39なのだが、誕生当時は地方費道旭川根室線のルートを通っていた。すなわち旭川〜愛別〜上川〜北見峠〜白滝〜丸瀬布〜旭峠〜留辺蘂〜北見(旧:野付牛)〜美幌〜網走であった。

 現在のR39の経路となる上川〜層雲峡〜石北峠〜留辺蘂間の道路は、昭和32年(1957年)10月に開通する。昭和に入ってから開削されたのではなく、この区間の道路は明治中期から開拓を目的に建設された道路が前身となり、石北峠の東西側入口となる留辺蘂と上川・層雲峡から道路建設が進んで行った。これらの開拓道路は森林・鉱物資源を輸送する道路となり、昭和20年代後半に1本に統一されて道道留辺蘂上川線に指定された。

 この道道留辺蘂上川線は3本の道道と町道を統一したものである。

1)道道二股留辺蘂停車場線

 明治31年(1898年)に武華原野の温根湯(おんねゆ)地区で開拓が始まり、留辺蘂から温根湯までの道路が明治40年(1907年)に開削された。温根湯温泉の開発もあり、大正4年(1915年)には温根湯に市街地の区画整理が行われた。さらに大正11年(1922年)頃までに、野付牛〜留辺蘂間の鉄道開通により入植者が増加。開拓地が奥地に進むにつれて道路も延長開削されて奥地に延びていった。同時に豊富な森林資源が着目され森林鉄道も建設された。

 昭和11年(1936年)11月、全道を襲った大暴風雨により武華山で多大の風倒木被害が生じた。この時、武華山山麓に当時東洋一と言われた水銀鉱が発見され、開発のために武華原野からイトムカ(現:留辺蘂町富士見)まで専用道路が開削された。現在のイトムカ鉱業所付近までの区間となり、この区間は戦後の昭和27年(1952年)12月に道道二股留辺蘂停車場線に指定された。

2)道道旭川層雲峡線

 明治27年(1894年)に愛別原野の区画測設が行われ、明治29年から開拓者が入植し始めた。それにともない明治34年(1901年)から石狩川南岸の愛別原野に道路建設が開始され、明治41年頃までにはマクンベツ(上川)付近まで開通した。層雲峡入口にあるマクンベツ原野とソーウンベツ原野(現在の清川付近)の開拓が始まり、層雲峡の温泉開発が大正4年(1915年)から本格化すると、大正9年(1920年)9月に留辺志部(現:上川町日東付近)から双雲別(現:清川付近)まで殖民道路が開削。さらに大正13年(1924年)には温泉経営者が私費で温泉までの道を切り開いた。翌14年には旭川土木事務所が双雲別〜層雲峡温泉間(7.9km)の自動車道開削に着手して同年9月末に開通。さらに大正15年(1

926年)12月には神仙橋が完成。昭和2年(1927年)に終点の層雲閣まで完成した。その後、昭和6年(1931年)には閑院宮載仁親王御成のため、流星・銀河の滝まで自動車道が造成された。

 昭和19年(1944年)、森林資源開発を目的として森林鉄道の敷設工事が開始される。この森林鉄道はこれらの道路に平行するように建設が進められ、昭和24年(1949年)までに19kmの路線が完成した。しかし温泉より奥に鉄道を延伸することができず、以後の開発はトラックで行うことになり、鉄道は昭和27〜29年にかけて撤去されトラック専用道になったが、既存道が悪路であったため各所で一般自動車道と林道の併用が行われていた。また木材搬出のため、昭和27年(1952年)8月に層雲峡温泉街の対岸に層雲峡隧道(L=417m)の建設工事が開始され、昭和29年(1

954年)5月に完工した。この隧道も一般車との併用であった。

 昭和27年(1952年)、愛別町中愛別〜安足〜上川〜層雲峡間の道路は道道旭川層雲峡線に指定された。

3)町道武華層雲峡線

 上川〜留辺蘂間を結ぶ道路開削と鉄道新設は、明治時代末期から両地区の村理事者や有志による踏査ならびに請願陳情が行われていたが、地形 があまりにも峻険であり、奥地の天然資源保存という意見もあってなかなか実現しなかった。

 しかし昭和16年(1941年)12月に対米戦が始まると、軍需用木材の需要増大とイトムカ水銀鉱山の水銀と物資輸送の距離短縮、奥地の保安林施業計画の見地から、昭和17年(1942年)に小函から石狩川上流に向かって道路の建設工事が始まった。しかし石狩川両岸はそそり立つ大岩壁であるうえ、労働力不足もあって工事は極めて難行した。そのため昭和19年(1944年)からは帝国陸軍工兵隊が動員されるという異例の事態となったが、この道路の建設は陸軍が工事に参加するほど重要な事業であった。陸軍部隊の動員により工事は進んだが、大函隧道380mの開削を含め、大函まで2500mを開削したところで昭和20年(1945年)8月の終戦を迎え、工事は中断された。

 昭和23年(1948年)から工事は再開。復旧工事を行いながら工事は進み、昭和25年には大函橋が完成した。さらに戦後復興のための木材増産と水資源確保のためのダム建設を目的として大函上流の開削工事が進められ、昭和29年(1954年)までには武華隧道手前までの約10kmの道路が開削された。この昭和29年3月、道道旭川層雲峡線と道道二股留辺蘂停車場線と合わせて、主要道道留辺蘂上川線に指定された。

 留辺蘂側からも昭和27年(1952年)から復旧工事と合わせて道路開削工事が開始された。留辺蘂からイトムカ鉱山までは道路が開通していたのだが、戦争中の車輌不足で森林鉄道に交通をすべて依存していたため道路は廃道状態になっていた。まずはイトムカ鉱山社宅街まで約3kmの区間の道路開削から始まり昭和29年に開通する。

 昭和29年(1954年)9月26日、台風15号(洞爺丸台風)により全道は未曾有の大被害を被り、至る場所で風倒林が生じた。層雲峡経営区だけでも蓄積していた森林の約53%が倒れるという状況で、風倒木処理は急務となった。昭和30年(1955年)から林野庁が2420mの道路開削を実施。

旭川・網走の両開発建設部による工事も急ピッチで進められ、昭和31年(1956年)には武華隧道(L=150m)が竣工。昭和32年(1957年)10月1日に道道留辺蘂上川線が開通 した。

 道道留辺蘂上川線経由だと、旭川〜網走間の移動距離は北見峠を経由する国道39号線経由と比べると約20km短縮されたことから、昭和35年(1960年)6月1日に国道39号線 に指定され、国道39号線の経路は層雲峡・石北峠経由という現在のルートに変更となった。

 また昭和39年(1964年)に安足間(あんたろま)経由の新道が開通し、昭和40年(1965年)4月から安足間経由の現ルートに変更、それまでの中愛別〜越路〜上川経由の旧ルートは昭和44年(1969年)6月に道道中愛別上川線となった。

 

 

◆北見道路(国道39号線旧道)のその後

 昭和35年(1960年)6月1日に経路が層雲峡・石北峠経由に変更となると、それまで一級国道であった北見峠経由のルートは道道に格下げとなり、上川〜遠軽間は道道遠軽 上川線、遠軽〜清川〜佐呂間栄〜留辺蘂間は道道生田原上佐呂間留辺蘂線に分割された。さらに後者は昭和47年(1972年)に道道北見生田原線(北見仁頃〜佐呂間栄〜生田原安国)と道道留辺蘂常呂線(留辺蘂〜佐呂間栄〜常呂)に分割された。

 昭和45年(1970年)4月1日にR273が誕生し、道道遠軽上川線の上川〜上越間がR273となった。その5年後の昭和50年(1975年)4月1日にR333が誕生し、道道遠軽上川線と道道北見生田原線はR333の一部となった。また道道留辺蘂常呂線は、昭和51年(1976年)4月に道道留辺蘂浜佐呂間線の一部になり、ほぼ現在の路線形態となった。

 ちなみに現在の車道となる北見峠の新道が開通したのは昭和47年(1972年)11月7日。道道遠軽上川線時代のことで、R333昇格時から新道経由だったことになる。中央道路となる北見峠旧道がR333であったことはなく、北見峠旧道は厳密に言えばR39旧道というのが正しいということになる。新道に切り替えられたのは北見峠東側区間であるが、最後まで舗装されることはないまま旧道(→廃道)となった。最後まで北見道路時代の面影を残す区間だったのだろう。

◆高規格道路網の整備

 国道昇格後のR333は整備が進んで行くが、抜本的な道路網の整備が開始されるのは昭和末期からとなる。昭和62年(1987年)6月の第四次全国総合開発計画によって、日本全国に高規格幹線道路網が計画された。道央とオホーツク圏を結ぶ道路としては、北海道旭川市と北海道紋別市を結ぶ高規格幹線道路として旭川紋別自動車道が計画された。旭川紋別自動車道は石北峠ではなく、北見峠を経由するルートで計画された。険しい地形の層雲峡や石北峠を避けた形になる。明治時代に計画された『中央道路構想』の21世紀版とも言える道路建設構想となる。

 旭川紋別自動車道は昭和63年(1988年)度に事業化される。平成5年(1993年)4月には国道450号線に指定。一般道路が存在しない3ケタ国道で、R39〜R273〜R333〜R242〜R238のバイパス道路的な位置づけとなった。平成14年(2002年)3月末に浮島IC〜白滝IC間が開通したのを最初に、平成16年(2004年)3月末に比布Jct〜愛別IC間が開通。以後、東西方向に向かって延伸し、平成22年(2010年)3月末に比布Jct〜丸瀬布IC間がつながった。残る区間は引き続き事業中で、遠軽付近までは平成28年(2016年)度頃に供用開始予定となっている。北見峠は平成14年に開通した北大雪トンネル(L=4098m)で通り抜けており、明治時代の中央道路(北見道路)から数えると3代目の道路ということになる。

 平成24年(2012年)現在、このR450(旭川紋別自動車道)に接続するような形で高規格道路の遠軽北見道路が一部事業化されている。平成14年(2002年)11月に旭峠に建設された旭野トンネルを含むR333旭峠道路は遠軽北見道路 の一部となる区間で、同自動車道としては最初に開通した区間ということになる。この旭峠道路は旭峠下の旭隧道(L=167m。S31年開通)のさらに下に建設された道路で、地方費道旭川根室線時代の大正8年(1919年)に開通した初代旭峠道路から数えると3代目となる。

 現在は遠軽側から旭峠道路に接続するような形でR333生田原道路が建設中となっている。残る区間は計画中であるが、遠軽北見道路が全通すれば、再び北見峠経由ルートが道央とオホーツク方面のメインルートになるのだろう。

 

 

【参考・引用文献】 北海道道路史T〜V 北海道道路史調査会編 平成2年6月刊

新北海道史 第四巻 昭和48年8月刊

国道333号線TOP

日勝連絡道路の話

●江戸時代の日勝連絡道路

 江戸時代初期の北海道の太平洋岸の交通はもっぱら船が主流であった。陸上交通路は一応あったのだが、ほとんどが太平洋岸を進む海岸路。波打ち際を歩く道で、海が大荒れになると当然通行できなくなった。特に現在の襟裳岬付近は、北海道の屋根とも言える日高山脈が海に没する場所で、海岸近くでも断崖絶壁をなしている。人が歩くような海岸はほとんどないため通行は干潮時に限られ、どうしても歩くことが出来ない場所は絶壁に「蔦(つた)」などを吊して、これを命綱にして絶壁を登り降りするという状態であったという。また平坦な海岸線でも、大小の河川が流れ込む場所では通行が阻害されていた。

 18世紀後半になると、蝦夷地での反乱やロシア帝国使節ラックスマンの根室来航(1792)、イギリス艦来航(1796)など、北方警備の重要性が高まってきた。東蝦夷地が幕府直轄地になると、江戸幕府は国防と蝦夷地開拓の必要性から、箱館(今の函館)から択捉にかけての交通路すなわち道路整備を急ぐことにした。当時の北海道の多くの道路が海岸線を行く歩道であったため、海岸線から内陸部を通る”山道”を開削することにし、寛政元年(1799年)から道路開削事業に乗り出した。日高地区では「様似山道」(様似〜幌泉)、「猿留山道」(広尾〜猿留)が幕府により計画・開削された。この他に、東蝦夷地探検の幕史が開削した「ルベシベツ山道」(ビタタヌンケ〜ルベシベツ)もあった。

 また大小の河川の渡河部については架橋するなどして整備を進め、文化三年(1806年)には箱館(現在の函館)から根室・択捉を結ぶ、東蝦夷地の交通路が竣工した。現在のR235〜R236〜R336〜R38に相当するルートで、江戸時代中期に開削された道路がこれらの道路の先祖ということになる。

●明治時代の日勝連絡道路

 江戸時代中期に開削された交通路は、その後も改修が行われた他、宿駅の設置や近道(今でいうバイパス道路)、渡船場が建設されるなどして整備されていった。明治維新後、蝦夷地は北海道と改称されて、北海道開拓のための開拓使庁が設置された。開拓使庁は北海道開拓計画の主要事業として、幹線道路の改修を行った。日高では「東海岸道南路」が整備された。東海岸南路は苫小牧で札幌本道から分岐して海岸沿いに根室まで進んで、東海岸北路と斜里道に接続する道路(根室街道)であった。江戸時代に整備された道路や山道を改修したものでルートもほぼ同じであった。

 明治9年(1876年)に政府は日本の道路を国道・県道・里道の3種類の道路に分類。「国道」というものが初めて規定された。この時の国道は今のような番号制ではなく、一等〜三等の3等級に分けたものであった。明治18年(1885年)、内務省は日本国内で国道44路線を指定。この時から番号制となり、一号線〜四四号線までのいわゆる「明治国道」が誕生した。

 北海道では六号線(東京〜青森〜函館)、四二号線(六号線重複〜札幌)、四三号線(六号線・四二号線重複〜根室)の3路線が指定された。この四三号線の前身が東海岸南路で、苫小牧で四二号線から分岐した後、苫小牧〜浦川〜幌泉 (現:えりも町)〜猿留(現:目黒)〜広尾〜歴舟〜大津〜尺別〜白糠〜釧路〜昆布森〜厚岸〜浜中〜落石〜根室というルートを辿った。

 明治国道時代は道路の改修が進む。明治国道とは言え、元を辿れば江戸時代に開削された道路。急坂が多く急峻な地形を通る山道から改修が始まる。明治23年(1890年)、前述の「様似山道」「猿留山道」「ルベシベツ山道」の海岸沿いに新たに道路が建設される。岩石が突出している場所では爆薬で爆破して道路を建設、無理な場所では隧道を建設するなどして道路を建設。明治25年(1892年)頃までには再び海岸沿いを進むルートとなった。他の区間でも明治国道指定後に道路整備が進み、それらを含めて明治40年(1907年)頃までには様似付近までの道路が改修された。

 様似から先は地形の制約上から道路開削は困難とされたが、幌泉 (現:えりも町)までは旧来の道路の改修でどうにか開通をみた。しかし幌泉〜猿留〜広尾間は急峻な地形で海岸沿いの道路建設は困難であったため道路改修は停滞する。

 広尾から北では帯広方面に向かって「広尾街道」が建設され、明治31年(1898年)に開通する。国道四三号線関連では、大津に向かう「大津道路」が明治35年(1902年)に開削されている。

 明治40年(1907年)5月、明治国道の改定が行われ、国道四三号線は”東京ヨリ第七師団(旭川)ニ達スル路線”に変更となった。(内務省告示第58号) これにより国道四三号線の路線は、北海道仮定県道南海岸線(北海道庁ヨリ根室支庁ニ達スル路線 根室ヨリ花咲港ニ達スル路線)に編入され、国道から仮定県道となった。(北海道庁告示第275号)

黄金道路

 大正8年(1919年)4月に道路法が公布され、翌大正9年4月に新たな国道や地方費道などが制定される。仮定県道南海岸線はいくつかの地方費道に分割・再編されて消滅。それまで仮定県道に含まれていた日高・十勝の海岸路は地方費道札幌浦河線、地方費道帯広浦河線となったが、日高における幹線道路としての役目は変わらず整備が続けられた。

 幌泉(現:えりも町本町)〜猿留(現:目黒)〜広尾間の海岸沿いは険しい地形で道路建設が困難な状態にあった。この区間には海岸道があったが山道と併用という形態で、かろうじて陸上交通路が確保されていたに過ぎなかった。しかしその海岸道は風波にさらされるため、絶えず補修が必要な状態であったため、地域住民からは本格的な改修が望まれていた。

 この区間の道路改修事業は日高側から始まる。大正10年(1921年)に室蘭土木事務所駐在員による実態調査で海岸道路建設の可能性が示されたが、地形や地質的に建設は困難と見られていた。そんな状況下であったが、大正12年(1923年)に様似〜冬島〜幌泉間の様似山道区間で道路開削事業に着手。様似〜冬島間は明治国道時代の道路を改修したが、様似山道区間では山道下の海岸沿いに新たに近代的な道路を開削することにし、4年後の昭和2年(1927年)に様似〜幌満間が開通。さらに翌3年には二雁別(にかんべつ)のニカンベツ川近くまでの道路が完成した。

 十勝側の動きは遅く、大正14年(1925年)に広尾橋の架換をきっかけとして道路開削事業が進むことになる。翌大正15年(1926年)になって、北海道では日高海岸を通る道路の重要性を認識し幌泉〜猿留〜広尾間の道路開削を決定。これですんなりと事業が進むかと思われたが、事業はそう簡単には進展しなかった。道路が通る予定の海岸線は漁民が昆布の干場として利用しており、道路が開削されれば生活基盤を失うことになることから強硬な反対運動が起こった。道庁始め地元自治体も対応に苦慮し、地元漁民の説得、地権者との交渉や海岸線付近の土地の確保などに時間がかかってしまう。 これらを解決して、庶野〜広尾間の道路開削事業が始まったのは昭和2年(1927年)のことであった。

 工事は十勝側(広尾側)から昭和2年に、日高側(幌泉側)からは昭和3年に始まる。工事は6工区に分けられていた。このうち第6工区の日高・十勝国境(現:えりも町と広尾町境付近)〜タニイソ(谷磯)間が海岸近くまで絶壁が迫っていることもあって最大の難関工事区間となっていた。工事期間は長期に及び、まずは昭和5年(1930年)10月に音調津〜広尾間が開通。それから4年後の昭和9年(1934年)10月末に庶野〜広尾間の道路が全通する。この間、工事中の殉職者や雪崩による犠牲者など多くの犠牲の後、翌11月3日の明治節に合わせて「日勝連絡道路開通式・慰霊式」が行われた。道路延長は約32.4km。その間に橋梁が22カ所、トンネルが17カ所、防波堤延長は延べ6346mで25カ所に及んだ。

 これほどの大工事ということで建設費は巨額にのぼったため、この区間の道路は『黄金道路』と呼ばれるよ

うになった。一説では昭和5年10月の音調津〜広尾間の道路開通の頃から自然に呼ぶようになったという。由来は”お札をならべるほどの金額がかかった”ことによるものらしい。実際、総工費は945503円で1m当たりの平均工費は28円19銭となるのだが、十勝側では1m当たり34円を超えて前述の第6工区では44円55銭〜48円82銭、第2工区(どの区間かは資料 なく不明)は1m当たりでなんと94円13銭であった。

●国道38号線・国道235号線・国道236号線の誕生

 いわゆる『黄金道路』の開通で、海岸沿いを進む日勝連絡道路が全通する。当時は内陸部に連絡道路はないため、唯一の日勝連絡道路で重要路線となった。しかしもとが険しい地形と厳しい自然環境の場所に建設された道路なので、崖崩れや波の浸食による道路欠壊、雪崩など1年を通して災害が発生。軍事上にも重要路線となるため、整備・改修や災害復旧工事はは全通後も行われた。

 戦後の昭和23年(1948年)からはGHQの指示による「道路維持5年計画」で、道路の維持修繕事業が実施される。この事業には戦後初めて帯広刑務所に服役中の模範囚人50名が投入されている。

 昭和27年(1952年)6月10日に(新)道路法が公布される。これにより大正8年(1919年)に公布された(旧)道路法は廃止され、(新)道路法により制定された国道が誕生。苫小牧〜浦河間が国道235号線、浦河〜様似〜広尾〜豊似〜帯広間が国道236号線、帯広〜釧路間は国道38号線の一部として制定された。このうち国道236号線は、幌泉(現:えりも町)〜庶野間が、帯広浦河線時代の幌泉〜歌別〜襟裳岬〜百人浜〜庶野というルートから追分峠を越えるルートになっている。

 昭和33年(1958年)、海岸線に沿っていた国道38号線の浦幌〜直別間のバイパス事業が開始される。この区間の静内〜昆布刈石間には霧止峠という難所があり、昆布刈石〜厚内間は海岸線まで張り出した断崖下のわずかな場所に道路を通していたため落石などが頻発し、厳しい地形や海岸線沿いを進んでいた国道は道路維持に困難を来していた。バイパスは新吉野から浦幌市街を経て山間を通って直別に至る約25kmのルートで、うち浦幌〜直別間の18.4kmの間に、トンネル3カ所、橋梁18カ所を設けていた。バイパスは昭和42年(1967年)に竣工。これが現在のR38であり、R38旧道はr1038(道道直別共栄線)となっている。

 昭和35年(1960年)からは、国道236号線の庶野〜広尾間の「黄金道路」区間の改修工事が開始される。この第一次改修工事は昭和61年(1986年)10月まで続き、数多くのトンネルや覆道が建設されたこともあり総工費は約300億円に達した。現代においても「黄金道路」であるようだ。

●国道336号線の誕生

 昭和50年(1975年)4月に、国道昇格から外れた旧「大津道路」区間の広尾〜大津間を含む、浦河郡浦河町〜釧路市を結ぶ国道336号線が誕生する。昭和57年(1983年)4月には開発道路の道道浦河大樹線を国道236号線に昇格。国道236号線は現在のルートとなった。同時にそれまで国道236号線であった様似町〜えりも町(旧:幌泉町。昭和45年に町名変更)〜広尾町豊似間は国道336号線になった。

 ルートが変更となった国道236号線は野塚岳下の区間が難工事のため長らく未開通で分断国道状態であったが、平成9年(1997年)9月に野塚トンネル(L=4232m)が開通し全通している。

 また国道336号線の広尾郡広尾町〜幌泉郡えりも町間では、平成2年(1990年)度から襟広防災事業が行われており、長大トンネルなどを建設して内陸に道路を移す工事が行われている。十勝郡浦幌町では浦幌道路の建設も進んでおり、将来的にはかつての明治国道四十三号線のように、日高〜十勝沿岸の海岸沿いに国道が通るようになるのだろう。

●天馬街道

 日勝連絡道路は海岸沿いを進むルートしかなかったが、内陸路の連絡道路として明治35年(1902年)に日高山脈の野塚岳を越えるルートの踏査が浦河町の有志により行われた。その後、具体的な道路建設の話があったのかは不明であるが、日勝峠同様に有志などによる踏査が引き続き行われた。記録に残るだけでも大正12年(1923年)、昭和7年(1932年)、昭和9年(1934年)とあるそうだ。大正12年は広尾町有志、昭和7年は浦河町長他7名によるもので、町長自らが踏査に参加したのは珍しいことである。同じ頃、右左府〜(十勝)清水間の日勝峠を越える道路の建設に向けて着々と調査や請願が進んでいることから、先に第二の日勝連絡ルートを確保したいという思惑があったのかもしれない。

 昭和9年の調査は鉄道省工務局による鉄道敷設のための測量であった。この調査で野塚岳越えのルートに鉄道施設は可能であると判断された。日勝連絡鉄道の重要性は高く着工されるかと思われたが、戦争により着工されることはなかった。もし着工されていれば、日高本線の日高幌別から広尾線広尾の間に日勝連絡鉄道が通ったかもしれないのだ。

 戦後、昭和26年(1951年)に浦河町と大樹町の関係者による戦後初の踏査が行われた。この2年後の昭和28年(1953年)に北海道開発局がこのルートに着目し経済効果を試算。翌昭和29年には開発局による踏査が行われた。その後しばらくは動きはなかったようだが、昭和41年(1966年)になって事業化を前提にした調査が始まり、昭和42年9月に開発局による計画路線調査が行われ、昭和45年(1970年)9月に『道道浦河大樹線改築事業』として事業化され道路建設が始まった。

 しかし途中の日高山脈の一部である野塚岳の下を通るため難工事となった。野塚岳前後の区間は昭和49年(1973年)に『上杵臼道路』として建設が始められ、最大の難工事と言える野塚岳を貫く野塚トンネルは昭和54年(1979年)から掘削を開始。その建設途中の昭和57年(1982年)4月に道道浦河大樹線は国道236号線に昇格。R236は昭和57年以降は日高山脈付近で分断国道状態になっていた。

 平成2年(1990年)8月に野塚トンネルが貫通。平成9年(1997年)9月末に野塚トンネル(L=4232m)を含む、R236上杵臼道路区間(L=12.2km)が開通したことで分断状態は解消され、R236は再び全通している。なお野塚トンネルを含む浦河郡浦河町〜広尾郡広尾町間は『天馬街道』と呼ばれている。

 

●国道274号線

 R274も日勝連絡道路の一つであるが、別項でまとめて記載します。m(_ _)m

【参考・引用文献】 北海道道路史T〜V 北海道道路史調査会編 平成2年6月刊

『北の交差点Vol.2』(1997年刊)

国道236号線TOP

国道336号線TOP

 

R274の話

 R274は幾本かの道道を昇格することで、昭和45年(1970年)4月1日に北海道札幌市〜北海道帯広市間の国道として誕生した。現在とは終点が違うのだが、十勝までに至るルートは当時も今も同じである。

 R274として誕生した当時は夕張山地を越える区間は未開通で”分断国道”となっていた。”分断国道”状態は、平成3年(1990年)9月に穂別町(現:むかわ町穂別)福山〜日高町日高が開通することで全通し一旦は解消された。しかし平成5年(1993年)4月の区間延長により、再び”分断国道”状態に戻ってしまい現在に至る。

 R274の歴史は、そのほとんどが日勝間が中心となる。なのでここでは日勝間に関するR274の歴史を記述する。・・・と書いているが、平成5年に延長された区間に関する資料が全く入手できていないのが本当の理由です。(^^;)

●江戸時代〜大正時代

 日勝道路の歴史は19世紀頃まで遡ることができる。江戸幕府が蝦夷地(現:北海道)の調査のため、寛政12年(1800年)に蝦夷地巡見使松平信濃守の名を受けた皆川周太夫が、十勝川河口のオホツナイ(現在の大津)から内陸に踏みいったのが最初である。この時のルートは現在の日勝道路とほぼ同じであった。その後は調査と踏査が繰り返されただけで明治を迎える。

 明治に入ってから最初に日勝間に道路の必要性が説かれたのは、明治24年(1891年)に発刊された『北海道殖民地選定報文』という書物である。この書自体は、明治14年(1881年)10月の札幌県(*1)の県吏2名と案内のアイヌ人らによる調査を元にしている。この時は右左府(うさっぷ)(現:日高町)から沙流川本流を遡り分水嶺(日勝峠?)を越えて十勝に入っている。この書の中で、日勝間の道路は「荷菜〜人舞間里道」という形で記されている。この区間は現在の平取町荷菜〜十勝清水町に当たる。

 公に道路計画が発表されるのは明治30年代のこと。明治20年代になると無人だった日高地方に砂金を求めて和人が入ってくるようになり、殖民区間が整備されて入植者が増え始めた。そこで日高管内の海岸部から内陸部への開発に着目した当時の浦河支庁(現:日高支庁)長が、荷菜〜右左府〜人舞間(平取〜日高〜十勝清水)を結ぶ道路計画を発表する。これが最初の日勝間道路計画と思われる。

 日高地方を南北に進む道路は計画が具体化し、日露戦争後の明治42年(1909年)頃から建設が進み、金山〜占冠〜右左府〜仁世宇〜平取間が全通したは大正2年(1913年)の事であった。(*2) しかし東西となる日勝間の荷菜〜人舞間の道路建設計画は遅々として進まなかった。そこで明治40年(1907年)に、人舞(十勝清水)の住民3名が日高山脈を越え陳情のため右左府に入った。それから13年後の大正9年(1920年)には、日高側より右左府官民合同踏査が実施された。合同調査隊の24名は雨の中2日がかりで日高山地を越えて十勝入りしている。この時の踏査が、初の公式調査となった。これを機に日勝間道路の建設機運が高まることになる。

●昭和(戦前)

 昭和に入ると日勝間道路の建設に向けたルート選定などのための調査が行われるようになる。昭和5年(1930年)8月には関係官庁による合同踏査が実施。昭和7年(1932年)2月には札幌・旭川・室蘭の3土木事務所合同のスキー隊による踏査が実施。さらに同年7月にも踏査が実施された。

 それらを踏まえてか、昭和8年(1933年)7月に浦河支庁長から北海道庁長官に対して、国有林内農耕用適地開放について日勝道路の開削を要請している。また(十勝)清水村・右左府村の両村長連名による陳情書が関係機関に出された。この後も何度にもわたって踏査隊が結成されて現地に派遣されている。しかしシナ事変に始まる大東亜戦争の長期化、対米開戦とその後の情勢悪化により、日勝道路建設構想は一旦棚上げされる。

●昭和(戦後)

 終戦直後の混乱期も道路建設どころではなかったが、昭和22年(1947年)に清水町側からの呼びかけにより、清水町・日高村(*3)の合同踏査隊が結成され、総勢22名で2日がかりで日高 山脈を越えている。この踏査隊が戦後初の踏査隊となった。昭和26年(1951年)8月には川西村(現:帯広市)調査団が踏査。さらに同年には日高村側と清水町側からそれぞれ幅約1mの刈分道が付けられた。全長約40km、延べ約150名を動員して1ヶ月かかって建設された。この道を使って、地元有志と議員、土木事務所員などの合同踏査隊が同年9月末に3日がかりで日高山地を越えている。昭和27年(1952年)6月、室蘭開発建設部による測量が始まり、日高国境までの概測が完了。同年11月には帯広開発建設部による十勝側国境までの概測が完了した。この測量は原生林や断崖のある場所での大変困難な測量であったという。これらの実地調査の結果を踏まえて日勝道路建設の陳情が行われたが、道路建設は遅々として進まなかった。

 昭和29年(1954年)9月の台風15号(洞爺丸台風)は日本各地、とりわけ北海道には大きな被害を与えた。日高地方では、日高山脈日高側の国有林内の森林約100万本が倒れた。この倒木を早急に処理するために、林野庁は昭和30年(1955年)に倒木運搬用道路開削費を予算化。同年4月1日に開発道路 (林道)日高清水線に指定されたのち、同年9月には村道日高清水線として北海道開発局により工事が着手された。

 日高側はウェンザル付近から沙流川本流沿いに日勝峠を目指して工事が進められた。一方の清水側は昭和33年(1958年)6月頃から日勝峠を目指して工事が開始される。しかし工事現場が原生林の広がる奥地と急峻な山岳地帯という、地形的な悪条件に悪天候も加わって工事は難航する。それでも道路は少しづつ開削されて行く。

 昭和36年(1956年)には日勝トンネル(初代:L=580m)の建設に着手。昭和39年(1964年)12月には村道(町道)日高清水線は主要道道日高清水線に昇格。その翌年、昭和40年(1965年)には日勝トンネルが開通したことで、同年10月15日に日勝道路(日高〜清水間)57.8kmが開通した。工事着工以来約10年後のことである。

●開通後の日勝道路

 開通直後の日勝道路は2車線道だが未舗装のダート道であった。また急カーブ・急勾配が続く悪路であったため、開通翌年の昭和41年(1966年)度から早くも道路改良事業が清水側から始められ 、道路の改良舗装、橋梁架換、防雪対策などが行われた。

 昭和45年(1970年)4月には国道274号線に指定される。国道昇格後も工事は進み、ルートの変更やトンネル・覆道ならびに登坂車線の新設が行われた。中でも昭和55年(1980年)6月に着工した日勝大橋と、昭和58年(1983年)9月に着工した熊見トンネルが昭和61年(1987年)10月に開通したことで、急カーブが続いた日勝道路の最大の難所が解消された。日勝峠でも平成3年(1991年)12月に日勝トンネル(現トン

ネル)が開通。その後も道路改良工事が進められている。

●未開通区間の建設

 日勝道路開通後、今度は日高〜穂別間の約35kmの道路建設計画が持ち上がる。同区間に道路を設けて札幌〜十勝間の最短道路を建設しようものであった。同区間は村道(町道)日高夕張線として道路建設が計画されていたが、道路が通る夕張山地一帯は急峻な地形で、なおかつ地滑り地帯であることから建設の目途は立っていなかった。

 しかし道路技術の発展により建設に目途が付き、昭和41年(1966年)4月に村道(町道)日高夕張線は開発道路に指定され、同年7月に日高側から建設が始まった。それでも急峻な地形と地滑り地帯であることから、建設工事は遅々として進まず、昭和45年(1970年)4月の国道274号線昇格時に同区間内で開通していたのは、穂別町(現:むかわ町穂別)福山と日高町日高の一部区間だけであった。

 国道昇格後は、国道として建設は続けられた。少しづつではあるが供用区間が延びて行く。主なところでは、昭和49年(1973年)3月に日高トンネル、昭和55年(1980年)に穂別大橋、昭和63年(1985年)10月に稲里トンネルが開通。平成元年(1989年)3月に福山トンネルが開通し、平成3年(1991年)に穂高トンネルとモルツトンネルが開通したことで、同年9月に日高〜穂別間のR274が全通し、R274の全区間である札幌市〜帯広市間が全通した。

 その後、平成5年(1993年)4月にR274は川上郡標茶町まで延長されるが、この時に白糠郡白糠町〜阿寒郡阿寒町(現:釧路市)など数区間の未開通区間が生じ、全通から1年半ほどで『分断国道』に戻ってしまった。平成22年(2010年)度末時点で、未開通区間が開通する見込みは全くない状態となっている。

*1:札幌県とは明治15年(1882年)〜明治19年(1886年)にかけて設置された地方行政組織。 同じ時期に函館県と根室県が置かれ、北海道は3県に分割された。しかし北海道

    の開拓に支障をきたしたため、明治19年1月に廃止され同年3月に設置された北海道庁により地方行政組織は再統一された。

*2:この時の右左府〜仁世宇間の道路は沙流川左岸に建設された駄馬が通れる程度の道で、昭和2年(1927年)から沙流川右岸に改めて道路建設を開始し、昭和6年(1931年)

    に開通した。いわゆる”右岸道路”と呼ばれる道路で、金山〜右左府〜平取を結ぶ縦貫道路であった。この道が今のR237の前身となる。

*3:昭和18年(1943年)4月29日に、沙流郡右左府村は沙流郡日高村に改称。 のち、昭和35年(1960年)11月1日には町制を施行し日高町となった。

【参考・引用文献】 北海道道路史T〜V 北海道道路史調査会編 平成2年6月刊

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