国道308号線

起点:大阪府大阪市→終点:奈良県奈良市(32.9km)

●概況

 R308は大阪府大阪市と奈良県奈良市を結ぶ3ケタ国道。関西経済の中心都市である大阪と観光都市である奈良とを結ぶ国道なので整備されている国道と思うだろうが、実体は3ケタ国道・・・。 都市連絡道路としては全く機能していない。

 数本ある阪奈連絡国道の中では最短距離で大阪奈良を結ぶのだが、道路的には狭路激坂が続く悪路で、全国の3ケタ国道のなかでは珍しい大都市近郊にある3ケタ国道である。

 両端の大阪・奈良市街地内は整備が進んでいるが、府県境の暗峠区間、榁木峠区間はほとんど整備は進んでいない。江戸時代の街道の雰囲気を色濃く残している。

●取材DATA

>>走行日:各項参照

>>走行方向:各項参照

>>レポート記述方向:起点→終点

●R308レポート

 

 
国道308号線(1) 大阪府大阪市〜大阪府東大阪市(暗峠まで)  
国道308号線(2)

奈良県生駒市(暗峠から)〜奈良県大和郡山市〜奈良県奈市

 

国道308号線(3)

奈良県奈良市

 

◆Update:平成26年(2014年)7月13日

●変遷

 昭和45年(1970年)4月1日:大阪府大阪市〜奈良県奈良市の国道として誕生。

 現在に至る。

●歴史

【暗越奈良街道】

 R308の祖先となるのは「暗越奈良街道」。「大阪街道」とも称された街道。もとをたどれば奈良時代の難波宮〜平城京を結ぶ街道(暗嶺道)。この街道は大坂と奈良を結ぶ最短距離の街道ということで、江戸時代には大和巡りや伊勢に向かう参拝者に盛んに利用された道であった。そのため沿道には旅館や茶屋が発達したそうで、現在の生駒市小瀬、奈良市追分・砂茶屋などには小宿場があったそうだ。この中でも奈良市追分には大名が宿泊する”本陣”が置かれ、村井家住宅というのが本陣跡となっている。(レポートのR308(2)の生駒市〜奈良市の写真20に写っている古民家) 沿道に旧街道らしい町並みがあるのはそういう歴史的な背景があるのだ。しかし多くの旅行者が行き来して栄えていた暗越奈良街道も、明治中頃に鉄道(現在のJR関西本線やJR.片町線など)が相次いで開通すると衰えてしまった。

 ちなみに街道の大坂側起点は、現在のJR玉造駅近くの”二軒茶屋”という所で、奈良県側起点は南円堂付近であった。

【明治時代】

 明治の世の中になると、奈良県内を東西ならびに南北に走る街道は、県費によって維持管理される県道となる。明治26年(1893)3月に告示された『奈良縣告示第三十號』によると、 「暗越奈良街道」は乙種仮定県道に指定されており、その経路は”添上郡奈良町大字角振ニテ奈良街道ヨリ分岐シ添下郡富雄村大字中平群郡南生駒村大字小瀬ヲ経テ同村大字西畑ニ至リ河内國界ニ達ス”と書かれている。 さらに明治43年(1910)の『奈良県統計書』で「暗越奈良街道」の経路は”自 奈良市橋本町元標 至 南生駒村大字小瀬”(@) ”自 南生駒村大字小瀬 至 大阪府國分”(A)と記載されている。現在のR308奈良県内のルートそのものである。

 この『奈良県統計書(明治43年版)』によると、@の区間は奈良市・添上郡・生駒郡を通る3里07町(約12.5km)、Aの区間は生駒郡内を通る2里18町(約9.8km)の街道であった。統計書では車輌通行・不通区間の記載もされており、@では0里33町(約3.6km)が車輌不通区間となっているのに対して、Aでは2里18町つまりはほぼ全区間が車輌不通区間となってい

たそうだ。また最狭道幅は、@で1.3間(約2m30cm)で、Aでは1.0間(約1.8m)となっていた。一部区間だけとはいえ、かなり狭い道であることがうかがえる。 

 大阪府内の「暗越奈良街道」は、奈良県側と同じく仮定県道に指定されていた。明治26年(1893)に発行された『明治26年度大阪府統計書』によると、起点は”大阪市東区高麗橋元標”とあり、江戸時代の街道起点から変更されている。これは高麗橋東詰に大阪府の道路元標があったためと思われる。所属郡市(経路のこと?)が”大阪市東区、南区、東成郡、澁川郡、若江郡、河内郡”とあり、最終的には”河内郡枚岡村大字豊浦管轄界”に至ると書かれている。詳しい経路は不明であるが、現在の大阪市中央区〜東成区〜東大阪市という経路なのだろう。

【大正時代〜昭和時代】

 大正時代に入り、大正9年(1920)4月に(大正)道路法が施行されて道路の路線名に街道名を付けることはなくなった 。翌大正10年(1921)発行の『大阪府統計書』に「暗越奈良街道」という路線名はみあたらないのはそういうことからだろう。代わりに所属郡市が”大阪市、東成郡、中河内郡”と書かれた「仮定県道大阪枚岡線」という道路が記載されていた。この道は昭和15年(1940)の『大阪府統計書』においては「府道大阪枚岡線」となっており、また所属郡市が”大阪市、布施市(現:東大阪市)”となっていることから、「大阪枚岡線」が「暗越奈良街道」の後身の道ということがうかがえる。 この府道が戦後に「大阪枚岡奈良線」となったのだろう。

 奈良県内についてだが、大正に入ってからの「奈良県統計書」には路線名の記載がないため経緯は不明となっている。(大正)道路法施行にともない県道が急増したため記載をやめたのだろうと思われる。昭和に入ってからの資料も見当たらないため変遷は不明。m(_ _)m 『大和百年の歩み(政経編)』に”県道においてもなお自動車の通り得ないものがある。旧暗越奈良街道の南生駒奈良線はその一例で・・・・・・”(621p)という記述があるのが @管理人が持つ唯一の資料となり、このことから「暗越奈良街道」のうち、前述の@の区間が「県道南生駒奈良線」に、Aの区間が「大阪枚岡奈良線」となったともの推察できる。奈良県内の変遷については、いずれ図書館にでも資料を探しに行ってきます・・・。

【国道308号線】

 昭和45年(1970)4月1日、旧「暗越奈良街道」区間は国道308号線に指定された。府道/県道大阪枚岡奈良線と奈良県道南生駒奈良線が昇格したのだろう。誕生当時の大阪府内のルートは今とは違い、大阪市東成区の新深江交差点から東に向かうコースであった。すなわち新深江交差点から、現在のr24〜r702(大阪枚岡奈良線)〜r15(大阪八尾線)〜r702〜箱殿交差点という、東大阪市を東西に横断して御厨を通り花園ラグビー場北側を通っていた。また奈良県内の終点も、奈良市大森の大森町交差点であった。これは当時(昭和45年頃)はR24奈良バイパスが平城京の遺構保存問題でルート変更が検討中で全通しておらず、奈良市街を通るルート(今のr754〜三条大通(一通区間)〜R169〜R369〜r754)がR24であったためだろう。

  昭和47年(1972)10月1日、大阪市東成区新深江交差点から内環状線を北に向かい、同区深江橋交差点で東に向かう今のルートに変更。大阪市〜東大阪市を東西に結ぶ幹線道路である中央大通の東端区間がR308に指定された。これにより新深江交差点〜箱殿交差点区間は府道に降格され現在の状態となった。

 奈良市内では、R24奈良バイパスの部分開通などによるルート変更により末端区間がR24と重複となっていた。R24奈良バイパス全通後の昭和58年(1983)年4月から、現ルートがR24となったため、R308終点が現在の三条大路2丁目交差点となり、同交差点〜大森町交差点はr1(県道奈良生駒線)に降格。現在のルートになった。

【国道308号線大宮道路】

  R308大宮道路区間は、元々は有料道路「阪奈道路」として昭和34年(1959)6月に開通。昭和56年(1981)12月に無料償還され奈良県道に編入(奈良生駒線)となった。現在の宝来IC〜三条大路5丁目/尼ヶ辻橋西詰間がR308に指定された時期は資料がなく不明であるが、第二阪奈有料道路が昭和61年(1986)1月に都市計画道路として事業化された頃に国道指定されたと思われる。その後、平成2年(1990)4月に大宮道路の事業が着手され、平成9年(1997)4月の第二阪奈道路(R308BP)の開通を挟んで、平成22年(2010)9月に完成供用された。

【参考・引用文献】 『大和百年の歩み(政経編)』(昭和45年8月刊)/他

●R308レポート>>R308(1)/R308(2)/R308(3)

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